1887年(明治20)~ 1971年(昭和46) 京都に生まれる。 京都市立美術工芸学校などで、竹内栖鳳ら京都画壇の重鎮から薫陶を受け、文展などで若くして頭角を現す。 1918年(大正7)には土田麦僊らとともに、自由な個性の発露を目的とした国画創作協会を創設し、意欲作を発表した。 晩年は画壇から離れ高度な精神性を示した墨画を数多く遺す。 生涯にわたり花鳥画を描いた。
1918年(大正7) 各176.0×114.5 cm 樹の幹の立体的な描写や、樹皮などの写実性には西洋絵画の影響が感じられるが、構図上は、中国絵画からの影響がうかがえる。東洋と西洋、それらのエッセンスを取り入れようとしていた、当時の紫峰の制作態度がうかがえる秀作である。
1939年(昭和14)頃 45.2×50.3 cm 紫峰の庭には禽舎が多数あって、彼らの生態を日々見ていた紫峰は、きっと自身も鳥の仲間になって遊んでいる瞬間があったに違いない。自然との交歓に無常の歓びを感じた画家にして描ける花鳥画である。
1967年(昭和42)頃 53.0×23.5 cm 生涯を自然との対話に費やしてきた紫峰が晩年にたどり着いた水墨画の世界。自然を突き詰め、そこから汲み取ることのできた真実の姿は、墨によって最も豊かに表現されるものであった。