1874年(明治7)~ 1911年(明治44) 長野県に生まれる。 東京美術学校にて、岡倉天心や橋本雅邦の指導を受ける。 1898年(明治31)、日本美術院の創立に参加。 大観とともに、朦朧体と呼ばれる没線彩画を試みるなど、鋭敏な感覚と清澄かつ知的な眼で、新日本画の創造に専心した。 美術院衰退後は文展を舞台に名作を生み出したが、1911年(明治44)、惜しまれつつ早世した。
1906年(明治39) 118.0×49.8 cm 菱田春草の「猫」といえば、文展に出品された名作《黒き猫》があるが、これはその4年前の作である。《黒き猫》で完成された写実と装飾の融合が、この作品においてすでに追求されており、夭逝した天才画家にして描ける秀作といえる。
1902年(明治35) 54.5×112.2 cm 大観とともに朦朧体と称された技法が非難された頃のものであるが、洗練された格調高い一作となっている。冷静に計算された構図と抑えた色調は、紫陽花の持つ華やかな中にも淋しさの漂う雰囲気を満喫させてくれる。